書評など

読んだ本の内容、感想などを適当に書いていきます。数が増えたら分類するかも

*新しい記事が上に来るようにしました。(2004.12.03)

14a. イ・イクソプ 李翊燮、イ・サンオク 李相億、 チェ・ワン 蔡碗
 「韓国語概説」 大修館書店 [2004] 原著 "hankuk uy ene" [2001]

14b. イ・インス 李仁洙、キム・ヨングォン 金容権
「ハングル単語文法活用事典」 三修社 [2005]

14c. イム・ヨンチョル 任英哲、井出里咲子
「箸とチョッカラク」 大修館書店 [2004]

というわけで、「10年間進展なし」とオクサンにバカにされていた朝鮮語(私は韓国語とは言わない)に本気に取り組むことにしました。早速書店で物色したのが上記の諸本です。それまでは梅田博之「NHKハングル入門」日本放送出版協会[1985]を読んでいたのですが、どうもこの歳になるとこういうstep by step型の正統派「語学」教科書は読むのがまだるっこしく、とりあえず言語全体の特徴が記載された14aのような本で概要を頭に入れちゃうほうが気が楽です。この本は、韓国の言語学者が「外国人」むけに書いたもので、最初に朝鮮語で出版されましたが、他に英語版のほかトルコ語、ロシア語版がでているそうです。トルコ語は日本語朝鮮語と同じような膠着語だし、ロシアは旧ソ連領内に朝鮮民族がかなり住んでいるので需要があるのかもしれませんね。文字、音韻、品詞、文構造、敬語法、歴史、方言と、朝鮮語に関する一通りの記述を備えており、ハングルが読めればさほど困難なく通読できます。敬語法っていう章が立っているのがいかにも朝鮮語ですね。全体に朝鮮語を朝鮮民族独自のことばとして誇りをもって記述していて、おのずと表れる「愛国心」がほほえましい箇所もあります。まあ語学教師はそれくらいじゃないとやっていけないかもしれないし、先年亡くなられた千野栄一さんの御本で、ポーランド人にポーランド語を習いに通ったら授業の前にかならず直立不動でポーランド国歌を歌わされたなんて話を読んだこともあり、対外的な苦難の歴史をもつ民族は日本人みたいに呑気ではないのかもしれません。が、敬語の複雑さを述べたところや、品詞の借用語のところの植民地時代以降に日本語から借用した語に関する記述など、やや冷静さを欠いているかなという気がしないでもありません。内容は平易かつ詳細で、他に類書がない(と思われる)こともあり、朝鮮語と一般言語学の初等的知識がある人にはオススメです。なお、この本ではハングルのアルファベット転記にはいわゆる"Yale code"を使っているので、原著名もそれで表記しました。
14bは文法の簡単な解説がついた単語集なのですが、文法の記述がつねに日本語との対照をとりながらなされていて、いわばちょっとした「日朝比較文法」書みたいな趣きになっています。フランス語やドイツ語の参考書には英語を対照言語にした初等的な文法書がよくあって私も何冊か持っていますが、まあ似たような感じです。前書きに依れば、日本人は「欧米人なら2年かかるところを半年でハングルを身につけることができる」んだそうで、ってことは半年やっても身に付かなかったら学習者がダメってことか。:-) まあ確かに文構造はほとんど同じ、敬語法や格助詞の使い分けはちょっとちがうけど、基本発想はおなじ、なんで固有語語彙がこんなに違うのか不思議なくらいです。(14aによると、現在の朝鮮語は昔の新羅語に深く関係している一方、高句麗語は古代日本語とよく似た語彙を持つそうです。)
14cは大修館の『月刊 言語』に連載されたものを下敷きにした本で、社会言語学と言語人類学のくだけた本といったところです。日本人と韓国人の言語行動の差や非言語的コミュニケーション様式の違いを分析しています。実際の発話場面では、この本に書いてあるような基本的な人間関係の考え方とらえ方の差が結構深刻なdiscommunicationの原因になったりするので、こういう本はすごくためになります。なお、「チョッカラク」とは朝鮮の箸のこと。
なお、音韻はどうしてもnativeの発音をなぞる必要があるので、私は石田美智代「CDブック やさしい韓国語会話」高橋書店[2004]を古本で入手し車のなかなどで聴いています。そういえば昔、荒木英世「エクスプレス古典ギリシャ語」白水社[1995]ってののカセットテープを買ったけど、あれはすごかったなあ。吹き込みが日本人。:-)
ついでにいうと、「韓流」ブームのせいか朝鮮語朝鮮文化にかんする本は最近鬼のように出ていますね。ドラマ・映画に関する本は目がくらくらするくらいたくさん出ていて、書店でめぼしい本を探すのがかえって大変です。とりあえず川村湊「アリラン坂のシネマ通り」集英社[2005]、石坂浩一「トーキング・コリアンシネマ」凱風社[2005]なんて本を買ってみましたが、まだ読んでいません。



13. オ・ギファン 呉基煥 (監督・脚本)
 「ラスト・プレゼント」 キングレコード KIBF322 [2003] 原題 "Seon mul" (膳物) [2001公開]

これは本ではなく、映画のDVDです。しかも当世はやりの「韓流」であります。本当に泣けるんだこれが。
才能あるけど売れなくて、すこしいじけているコメディアン(イ・ジョンジェ 李政宰)と、ちいさな子供服店を経営しながら夫を支える健気な妻(イ・ヨンエ 李英愛)。夫がようやく世に出る機会を得たとき、妻は不治の病で余命わずかとなっていた、という、まあ言ってしまえば「クサい話」です。(いろいろ筋書きに関することを書くので、観たことない人は「ネタばれ」を嫌うでしょうが、この手の話は予め筋書きが解っていたって全然平気じゃないかと思う。忠臣蔵は大抵のひとがよく筋書きを知っているけど、それは師走に歌舞伎座へ仮名手本を見に行くのに何の障害にもならない。) 夫と妻はお互いに相手を心から思いやるのですが、素直に気持ちを表現できなくて、いつも口論ばかりしている、でも実は相手のそういう気持ちもよくよく解っていて、自分を犠牲にしてまで相手のためにできる限りのことをしようとするという、まことに極東好みの設定で、本邦で言えばたとえば山田洋次の世界、高倉健や倍賞千恵子の世界であります。そういうわけでこの映画では、言葉より表情やしぐさがずっと重要な役割を果たしているのです。数多い催涙効果絶大な場面のなかにはせりふ=言葉が重要な場面も確かにあって、たとえば、知人に妻の病の不治を告げられた夫が家に走り帰り、洗濯している妻に激情を抑えながら、しかしはぐらかすような悪態をついてしまうところとか、妻が母の墓の前で自分が世を去った後の夫を思いやる気持ちを独白するところとか。でもほんとにすごいのは、ほとんどせりふがなくて、ただ演者の表情と所作だけで圧倒的な情を表現する場面です。たとえば、コメディアンなんぞになって「みなしご」を嫁にした息子をかつて勘当した夫の両親が、和解を求めて嫁=妻の子供服店をたずね、息子=夫をも呼び寄せて家族写真をとるところ: 舅は嫁に「アガ」(赤ん坊のこと。字幕は「娘よ」となっていた)と呼びかけ、撮影の時は嫁の手を取って自分の肩にそっと添えさせる、とか、夫と病院から戻った妻が久しぶりに同じベッドに入り、背を向けながらお互いの気持ちを思いやってそっと忍びなくところとか。(と、こう書いているだけでも思い出し泣きしそうだ。)
そして、もう一つの重要な要素が音楽。この映画のクライマックスは、お笑い芸人コンテストの決勝に勝ち進んだ夫が演じるコントを観ながら観客席で息絶える妻と、それを予期しつつ懸命に演じる夫を交互に写す場面です。夫はかつてのコント55号のような、かなり凝ったコントを演じるのですが、途中から音声は全く消え、この映画のテーマ音楽のみがかなり大仰なアレンジで鳴り響きます。劇中劇のようなコント(実はこのコント自体がこの夫婦の人生のいわば縮図になっている)の中で、コンビの相方が演じるところの「鮫の犠牲になった妻」の亡骸を抱きながら、夫のコメディアンは妻の死を悼むアリアを歌います。でもこのアリアはまったく聞こえません。ひたすらバイオリンが奏でるテーマ音楽の旋律が反復されるなか、客席の妻は夫の成功を見届けつつ息絶える。そう、たとえば能の狂女物の中舞のように、言葉は極少に抑えられ、音楽と所作のみで凄まじい劇的感情を伴う場面が進行する。単純な叙情的旋律をひたすら繰り返す音楽が、ここに実に効果的に使われています。この音楽、弦楽オーケストラの伴奏で独奏バイオリンが主題旋律を弾くのですが、最初聞いたときはオンド・マルトノじゃないかと思ったくらい(ちょっと東洋的な)ポルタメントを使い、音色もたぶん電子的に変えているようです。なお、このクライマックスでは、一箇所だけ夫の歌うアリアが聞こえるところがありますが、オペラ、とくにverismo系に不案内な私にはなんという曲か判りません。最後のタイトルロールを一生懸命見たのですが、私の朝鮮語の知識ではもひとつよく判りませんでした。なんとなくPucciniっぽいな、そういえば"La Boheme"に筋立てが似てないこともないなと、ふと思ったりもしたのでした。(昔この手の夢をみたことあるんだよね。母を訪ねて三千里みたいな筋で、最後の母子涙の再会の場面で鳴り響いていたのがMahlerの8番の終結部(笑)。)
そのほか、ようやく心が一つになった夫婦が取る朝食の場面で、ダイニングに満ちるほとんど宗教的な朝日の光、夫に語りかける妻の神々しいまでの表情など、見どころ考えどころがたくさんあります。
というわけで、この映画は確かに「クサい」。クサいんだけれど、このクサさは我々が昔からよく知っているクサさ、文楽とか歌舞伎とか(あるいはパンソリとか)で300年来身体になじんだクサさなのですね。能を観てすらついつい袖を濡らし、オクサンに「おばさんみたい」(フェミニストにあるまじき物言いではないか!)とからかわれる私は、こういうのにまったく抵抗できない。ただもう泣くしかないのです。

追記: 上記を書いた晩に床の中で、そういえば西洋でもCh.Chaplinの"Lime Light"ってのが、似たような泣ける話だったなあと思い出しました。でもやっぱり毛唐モノと極東モノはちがうんだなあ、なんてゆーか、余情ってやつが。


12. 渡辺満久 鈴木康弘
 「活断層地形判読」 古今書院 [1999] 

昨今の相次ぐ大地震でも判るように日本は地震の国であります。地球上で起こる地震の約1割はこの狭い日本列島周辺で起きております。1995年の兵庫県南部地震(神戸地震)以降一般にも知られるようになりましたが、地震の原因のうちの大きな割合をしめるのは、活断層という「動く地面の割れ目」です。この活断層、日本列島の至る所にありますが、神戸地震のおかげで予算が付くようになったのか、全国で調査が進みました。では活断層を探すにはどうするか。その武器は実は眼力なのです。この眼力を養うための教科書がこの本です。ではどのように養うのか。そのキモが「空中写真の立体視」です。やや異なる位置から撮影した空撮の地形写真を並べてじっと見ると、あーら不思議地形の凹凸がやたら強調されて見えてくるのであります。この凹凸のビミョーな形状から地中に潜む活断層をエイヤッと見つけだすのであります。これが活断層の「判読」です。横にずれる断層ですと、断層を横切る川や尾根が規則的にずれていたりもします。こうして見つけた断層を実際に掘ってみると、これまで何回動いているのか、一回にどれくらい動くのか、最後に動いたのはいつ頃か、なんてことが判ることがあり、「アブナイ断層」が判別できるのですが、この本では、そういう調査のためには断層のどこを掘ればいいのか、なんてことまで勉強できるようになっています。たくさんの活断層の実例とその写真が載っていて、私のような断層おたくにはまさにバイブルであります。阿寺断層や十日町断層、誉田断層月岡断層花折断層森本断層茅野断層などなど、この本読んでから個人的に訪れた断層もたくさんあります。
さて、活断層についてお勉強するには、島崎邦彦、松田時彦編「地震と断層」東京大学出版会[1994]がいい本だと思います。活断層の所在地については、書籍ではないのですが、オクサンから誕生日プレゼントにもらった中田高、今泉俊文編「活断層詳細デジタルマップ」東京大学出版会[2002](DVD2枚組)があっと驚く詳細さです。高価なくせにMacに対応しておらず、viewerソフトが全く不安定なのがモンダイですが。
地震についてはたくさん本が出ていますが、パリティ編集委員会編「地震の科学」丸善出版社[1996]が、特に電磁波を用いた地震予知の可能性について詳しく述べていて面白いです。ギョーカイでは有名な八ヶ岳南麓天文台の串田さんも寄稿しています。
日本の地震被害については、かつては理科年表が非常に詳しかったのですが、10年くらい前から簡単な記述になってしまいました。他には、総理府地震調査研究推進本部地震調査委員会編「日本の地震活動」財団法人地震予知総合研究振興会[追補版1999]や、岡田義光「日本の地震地図」東京書籍[2004]が詳しいです。震災の実状を知るための新潟県中越地震のなまなましい記録としては、報道写真集「新潟県中越地震」新潟日報社[2004]、「小千谷をおそった大地震」小千谷新聞社[2004」があります。
最後にビョーキ本を一つ。桑原啓三、上野将司、向山栄「空の旅の自然学」古今書院[2001]。地質学を仕事にしている3人が、出張などで飛行機に乗るたびに、機窓から見える地形を航空写真よろしく撮影した写真をたくさん集めたものです。地質学的な解説もついていて内容はしっかりしているのですが、。いい年したオジさんが、身をくねらせながら飛行機の窓にカメラひっつけて撮影している姿を想像すると、やはりビョーキの本であるといえましょう。とかいって私も結構同じようなことしてるよーな気もする。:-)


11. 中沢新一
 「僕の叔父さん 網野善彦」 集英社新書0269D [2004] 

網野善彦さんといえば、日本の中世史を、まあ大げさに言えば書き換えてしまったひとです。中世の歴史といえば荘園論、古代勢力と武士と荘民のたたかい、みたいな、時にいささか度を過ぎて「階級的」な叙述ばかりだったのですが、網野さんが王権論、非農耕民論、漂泊民論等、知られていなかった中世の社会構造に光を当てて滅茶苦茶おもしろくしてくれました。岩波文庫の「日本社会の歴史」上巻劈頭の「環日本海諸国図」、すごかったなあ。
その網野さんが亡くなられたのが2004年2月。その後すぐに網野さんの令室の兄の子、すなわち「義理の甥」にあたる中沢新一さんが雑誌「すばる」に連載した文章が、この「長大な追悼文」のもとになっています。
50年前の出会いの情景から始まって、中沢さんが学生のころの中沢家におけるすこぶる高度な議論の数々、中沢家の知的な雰囲気を形成した人々(コミュニストで農民運動家の父、蒲原で「反公害闘争」を支援した生物学者の祖父など)の生涯などがつぎつぎに語られています。じつのところ、「ほんとにこんな知的な御家庭があったのかしら」と思ってしまうところもないではないのですが、戦後のインテリ家庭の最良の例みたいなものが提示されていると思えばいいのでしょうか。著者の中沢さんは「ニューアカ」ブームの時に「チベットのモーツァルト」というちょっとカスタネダみたいな本で世に出、その後少し怪しい本をいくつかモノした後、オウムと東大不採用事件でゴシップねたとなり、最近は「カイエ・ソバージュ」シリーズが版を重ねているようですね。実のところ「チベモ」から近作に至るまで中沢さんの本はあまり評価していなかった(というか何がいいたいのかよく判らなかった)のですが、この本は名著だと思います。あとがきで、執筆しながら「オルフェウスの技術」すなわち死者のことばと姿を生き生きと蘇らせるわざを手に入れたような気がすると言う意味のことを書いていますが、確かにそうかもしれません。
そういうわけで中沢さんの本はよく判らないのですが、網野さんの本は結構読んでいるんですね私。その中でちょっとお奨めなのが「歴史としての戦後史学」日本エディタースクール出版部[2000]。自らの歴史学者としての歩みにからめて戦後の国史学会の動向を描いています。戦後の国史学は、なにしろ戦時中が滅茶苦茶だった反動でいろいろなイデオロギーがどっと花開いてしまい、なかなか大変だったようです。その中で網野さんも一時「愚劣な恥ずべき文章」を書きまくり、結局「おちこぼれて」しまったとか。その後高校教師を務めながらこつこつと史料編纂所にかよって勉強し直したそうですが、後の活躍が嘘のようなお話ですね。この本にはその他書評とか評論とかいろいろ収められていて興味深く読めます。また網野さんはいわゆる「県史」にも携わっており、福井県若狭地方に関する記述は「海の国の中世」[1997]、茨城県のものは「里の国の中世」[2004](いずれも平凡社ライブラリー) という本で読めます。後者はいささか几帳面すぎるかも。なお、自治体史に携わったおかげで生まれた名著として、他に永原慶二「富士山宝永大爆発」集英社新書0126D[2002]を挙げておきましょう。近所の火山が噴火して地上のどこもかしこも厚さ3mの灰が積もってしまったら、いったい人はどうすればいいのか、実際にそういう目にあった昔の人々はどうしたのか、あまり世に知られなかった壮絶かつ感動的な歴史が語られています。


10A. 宇都宮浄人
 「路面電車ルネッサンス」 新潮新書034 [2003] 

10B. 原 武史
 「鉄道ひとつばなし」 講談社現代新書1680 [2004] 

昨今は知りませんが、昔はどこの高校にも「鉄道研究会」略して「鉄研」なるものがありました。「鉄道マニア」という人種が寄り合あって、なにやら部外者には窺い知れない謎めいた会話を交わしていたものです。国鉄の衰退や相次ぐ廃線などもあり、一時期絶滅の危機にあるかに思えた「鉄道マニア」ですが、「鉄ちゃん」などと名前を変えて結構しぶとく生息しているようです。で、この10Aの著者である宇都宮さんですが、実はこの方私の高校(と大学)の先輩でして、吹奏楽部で太鼓たたきながら鉄研にも所属していたという御仁、隠れも無き鉄の人なのであります。経済学部を出てお役所に入ったまでは知っていましたが、日銀で路面電車の研究をしているとは知りませんでした。本屋でこの本を見つけたときは大いに笑ってしまいましたことですよ。
で、鉄の人にはいろいろいまして、電車の車両が好きな「クルマ(ハコ)の人」、ダイヤ時刻表がすきな「スジのひと」、とにかく乗っていれば幸せな「タビのひと」、あるいは写真を撮ったり切符を集めたり、某財団の講師の御夫君のように、妻がちょっと家を留守にしたすきに玄関から居間まで線路を敷いて小さな電車を走らせてしまう人とか、いずれにしても大変なわけです。宇都宮さんがこれらのうちのどの人だったかよく覚えていないのですが、なんかスジ系だったような気がしますね。吹奏楽の合宿で線路のそばの母校に泊まったとき、夜半の電車の音を聴いて「この音は寝台特急のどれそれである」などと御託宣を後輩どもに垂れていたような記憶があります。
で、この本ですが、路面電車の経済性利便性を見直しましょうという、一応経済学の本ではあります。日本国内のみならず、欧州や北米における路面電車あるいはLRT(Light Rail Transit)の成功例を紹介し、その要因を分析した上で、日本の衰退しつつある地方都市を再生するためにLRTが寄与しうるということていねいに説いています。これもまた趣味と仕事が調和したシアワセな例と申せましょう。路面電車、私も好きですしね。鹿児島熊本長崎松山広島京都-大津岐阜函館札幌くらいは乗ったことがあります。見るだけなら国内のは全部見てるな。:-)
一方、10Bの著者の原さんは、大正天皇に関する些か古風な著書などがある日本近代政治思想の研究者です。1962年生まれ、結構若いんですね。この本の記述によれば幼少のころから「スジのひと」だったらしい。自身では「マニアではない」というようなことを書いていますが、ま、まぎれもない鉄の人ですね。全8章からなる本書では、鉄道にかんする様々な話題が扱われますが、天皇と鉄道の関係を考える第1章がいかにもこの著者らしい。特筆したいのは、第6章に「駅そば」に関して述べている点です。というのも、私は1983年頃から「日本初の駅そば評論家」を標榜していた時期があり、駅そばに関しては些かウルサイのでありますよエッヘン。その私からみると本書の分析はややつっこみが足りないと言わざるを得ませんが:-)、駅そばの価値にきちんと言及している点は、まあ画期的といえましょう。その他、勝沼付近からみる晩春の甲府盆地の美しさ、一畑電鉄からみる宍道湖の風景、木次線の3段スイッチバックの話など、個人的にうんうんとうなずける話や、茨城の鉄道発達度合いと五・一五事件の関係とか、へーと思う話もあり、読んで損はありません。
鉄道ウンチク本というのはそれこそ星の数ほどあるのですが、最近読んだ本で気合いが入っていたのは、川島令三「日本の鉄道名所100を歩く」講談社+α新書219-1C [2004] です。著者は1950年生まれですが、経歴に芦屋高校鉄道研究会、東海大学鉄道研究会出身とあり、:-) 鉄道図書刊行会に就職、要するに筋金入りの鉄のひとのようです。実際に全国の鉄道に乗った経験から、鉄道による移動を楽しむための実践的知識を紹介しています。え、ほんとはおまえも鉄じゃないかって? 滅相もない。出張のときに鉄道無線聞くだけですよ。でへへ。


9. 鈴木晋一
 「たべもの東海道」 小学館ライブラリー130 [2000] 

世の中には趣味と仕事が一致してしまう幸せな人がいるもんです。この本の著者の鈴木さんもきっとそういう人なのでしょう。鈴木さんは、新聞記者などを経たのち、平凡社編集部員をながくお勤めになり、定年後に「平凡社大百科事典」の編集に携わったという経歴。いやになるほど本を読んだりあちこちにお出かけになったりする時間があったのではないかと想像します。つまり「趣味人」になるにはうってつけの方というわけです。その鈴木さんが近世の文献を漁り、東海道五十三次の「名物」であったたべものについてお調べになったのがこの本です。
品川宿は鮫洲のあなごに始まり、安倍川餅や丸子のとろろ、芋川のうどん、桑名の焼蛤、草津の姥が餅など世に知られたものに加え、瀬戸の染飯のように、名前は有名だが実体はあまり知られてないものも丁寧に解説しています。さらには宇津谷峠の十団子のように、いまだに実体がなぞのものもあり、興味津々です。わたし的には岩淵の栗粉餅っていうのがおいしそうだなあ、とか、丸子のとろろは大昔食ったなあ、大きな店の二階の座敷でお膳で食べたぞ、とろろの揚げたのもうまかったなあ、とか、目川の菜飯田楽っていうのは似たようなもの自分で作れるかなあ、とか、まあいろいろ考えながら読める楽しい本です。鰹のたたきとは本来塩辛のことであって現今のたたきは単なる刺身と呼ばれたとか、見附のすっぽんが小鍋仕立てで、鍋物は日本史における料理の供し方の革命だとか、きしめんは元々碁石型の団子に黄粉をかけたものだとか、京と山科の境の日岡峠で記録上日本最初の焼き芋を売っていたとか、お勉強にもなります。この手の本にありがちな、たとえば小学館の「サライ」なんぞに芬々と漂うスノビズムを全く感じさせない語り口は、生半可ではないきちんとした教養にささえられたものでしょう。
本編のあとに「旅の日本史」という題で6つの記事があり、さらに所謂「お江戸日本橋七つ立ち」ではじまる「道中唄」全編が掲載されています。博識ですなあ。同じシリーズに「たべもの史話」「たべもの噺」が入っており、同趣旨のうんちくが満載と思われます。


8. 瀬地山 角
 「お笑いジェンダー論」 勁草書房 [2001] 

門前の小僧習わぬ経を読む。オクサンが社会学なんてものをやっているせいで私もこういう本を読むようになりました。:-)
著者の名前は「せちやま かく」と読みます。「角」の前にスペースを置かずに表記してはいけないそうです。瀬地山さんの御専門は「ジェンダー論、東アジア研究」とのことで、「東アジアの家父長制」 勁草書房[1996]というムツカシイ本も上梓されています。そんな瀬地山さんのこの本、なかみは専業主婦に関する社会政策論を中心として、講演、新聞のコラムなどが集められています。専業主婦論は読んだ感じでは穏当というか当たり前というか、要するに専業主婦は恵まれた階層であるから優遇政策を続ける合理性はない、というものです。ただし専業主婦という生き方そのものを否定しているわけではなく、相応の負担をしてちょうだいというものです。「そんなこといったって主婦は『アンペイド・ワーク』なのよ家事労働を評価してよ」という意見もあるのでしょうが、著者によれば事実として専業主婦のいる世帯の所得は高く、妻がパート労働などで年150万円ていどの収入を得ている世帯がもっとも世帯所得が低いんだそうです。つまり無収入の専業主婦と低収入の職をもつ兼業主婦では明らかに階層差がある、配偶者控除や第3号被保険者制度などは低所得層から高所得層への所得再分配であり全く不合理である、と著者は主張しています。そして、配偶者に関する優遇政策は、扶養子弟に対する手当など子供を対象とするものに変換すべきだと述べています。もとのデータを信用する限り、しごくまともな議論だと思います。この部分は全くお笑いではありませんね。というか、他の部分もあまりお笑いでは無いんですねこの本。
さて、こういう固い話もいいですが、瀬地山さんの本領はルサンチマンに満ちた身の上話だというのが大方の一致する見方でしょう。:-) オーバードクター時代に専門学校講師としてわずかな収入を得るのですが、同棲(事実上結婚)していた御相手が法曹関係のエリートで収入は段違いに多かったそうな。ガクモンすることでなんとか男の矜持を維持するのですが、けんかして「出ていけ」と言われたとき「畳1枚分でも家賃を払っておくべきだった」と後悔しても手遅れ、結局出ていく羽目になったという話は、至る所で開陳されていてよく知られています。その瀬地山さんもこの本の出る2年前にはめでたく入籍され、アメリカ留学中に女のお子さんも生まれたそうで、まことに結構なことであります。母親になるかたが在日韓国人であるため、お子さんが米韓日の「三重国籍」になる話、子供の名前の付け方など、大変参考になりました。ところでフェミ系の本でこの本よかもっとお笑いなのが上野千鶴子・小倉千加子両巨頭による対談集「ザ・フェミニズム」筑摩書房[2002]、読者へのサービス満点です。その分議論のつっこみはいまいちかも。働く女性としての切実な体験から上野さんに入門したてんまつを描く遥洋子「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」筑摩書房[2000]は結構話題になりましたが、「面白うてやがてかなしき」本です。


7. 佐賀純一
 「ある田舎町の肖像」 図書出版社 [1993] 

なにげに古本屋で手にして、そのまま購入してしまったのですが、大変良い本でした。著者は茨城県土浦市の医師。慶応大学医学部を卒業してハワイで勤務医を勤めたという経歴の主です。このお医者さんが、ふるさと土浦の老人、もっぱら明治30年代から大正前半の生まれの人たちに昔の生活について語ってもらい、記録したのがこの本です。なんと英訳・仏訳が出ており、英訳版の序文はあのRonald.P.Doreが書いています。Dore教授は序文の中で、それぞれの語りの描写が細部にわたるまで生彩に富んでいることを賞賛し、「今から60-70年前に霞ヶ浦湖畔の町で成長して一人前の大人になることは、きっとここに語られているような感じであったに違いない」と感嘆しています。しかして読後感はまことにその通りであります。
内容は、「町の中で」「町の女性」「職人たち」「町並み追想」「大店・小店」「船頭と漁師」「芸者と海軍航空隊」「田舎の暮らし」「学校と遊び」の各章立てに従って70あまりのインタビューが載せられています。昔の庶民が信じられないくらい貧しく、それでも懸命に生きていた様子、古い土浦の町並み(昔は町中に川口川という大きな川があったそうな)、職人たちの若いころの修行と日々の仕事ぶり、昭和初期の帝国海軍軍人の振舞い、どの項を読んでもなにかしら発見があり、心をうつものがあります。職人たちが語るそれぞれの仕事に関する専門知識は、いまや全く失われた「暗黙知」がどれほどのものであったかを十分に示してあまりあるものですし、初期の海軍航空隊が英国軍人の指導をうけながら劣悪な条件下で訓練していたこと、そのために多くの訓練生が殉職したこと、これらの兵士の霊を慰めるために坊さんが上げた花火がもとで現在の土浦の花火競技会が始まったこと、大正14年に土浦女学校が校長排斥のストライキをぶったこと、などなど、面白い話が満載です。さらに著者の御父君が描いたという絵が随所に挿入され、これがまたいい味出してるんですね。もともとこの本は私家版で発行された「土浦の里」という本の改訂版なのですが、もとの本の方はカラーでたくさんイラストが入っていたそうです。
さてこの本、生まれも育ちも土浦である私の母にあげようと思って買ったのですが、あまりに面白くて私が通読したため、まだ母には見せていません。が、どうも「土浦の里」の方が実家にあったような気がしてきました。帰って調べなければ。なお、同じ著者で同主旨の本が他にも出ています。「霞ケ浦風土記−風と波に生きた人々」常陽新聞社[1995]、またちくま文庫に「浅草博徒一代記」[1989]があり(Bob Dylanが歌詞に引用しているとか)、講談社インターナショナルから発行されたこれらの英訳はまだ手にはいるようです。


6. J. ダイアモンド Jared Diamnod
 「銃・病原菌・鉄」上・下 草思社 [2000] 原著"Guns, Germs and Steel" [1997]

地球上の諸地域には様々な文化・文明が存在していて、それらのうちヨーロッパ起源の文明が現在のところ圧倒的に優勢なわけです。かくいう私も極東の島国に生をうけながら、頭のなかみは相当程度西洋文化文明に依拠していることは否定できません。ではほかの文化文明はなんでそうならなかったのか。そもそも文明が「発達」したりしなかったりするのはなぜか、西欧、北米のように高度に工業化した社会とオーストラリアの一部のように鉄器をもたない社会が同じ時代に共存していたのはなぜか。なんてことを、くどいまでに詳細に議論しているのがこの本です。1998年にピュリッツァー賞をもらった由。
表題の「銃、病原菌、鉄」は、16世紀にごくわずかのスペイン人が南米の諸文明をあっというまに征服してしまった、その要因として挙げられているものです。これらの征服の過程がいかにおぞましいものであったかということは、まあ高校の世界史でもちょっとだけおべんきょーするので結構知られているとは思いますが、実は銃で殺された先住民はごくわずかで、その後スペイン人の持ち込んだ伝染病で死んだ数のほうが圧倒的に多いんだそうです。じゃなぜスペイン人が死なずに先住民は死んじゃったのか、それは南米では家畜になるような動物がいなかったため、哺乳類と人間の共存関係がうすく、種々の「病原菌」に対する免疫を備える機会がなかったからだ、とか、農耕が発達できた地域はどのような環境特性をもっていたのか、とか、とにかく著者の博識が十分に伺える大著ではあります。この著者、医学から生理学に移り、進化生物学だの分子生理学の研究の傍ら、考古学や人類学言語学なども手がけるという、いかにも西洋の「知識人」です。他にも数冊、著書の邦訳がでています。しかしてその知識人が何故このような本を書くのか。私がこの本を読み終わったときの第一の感想は、「アメリカ人は大変やなあ、いまどきこんな分厚い本書いて、当たり前のこと言わなあかんのやなあ。」というものです。当たり前の事とは、すなわち「文化文明の『発達』程度の差異は、居住環境等に起因するものであり、諸民族の『人種』的差異によるものではない」ということで、これは著者もはっきりと強調しています。こういうことを20世紀も終わりになっても一生懸命言わなくてはならない、しかもそういう本がピュリッツァー賞なぞを取ってしまう、というところにアメリカ合衆国のなんというかナニなところが現れていると思うのですが、いかがでしょうか。とはいえ、本邦でも数年前には「『森と石清水の文明』は西洋に決して劣らないんだ、運慶の仏像はミケランジェロにも負けないんだ、でも中国朝鮮の文明は基本的にダメだったんだ」とか主張するナサケナイ本が結構売れたのは記憶に新しく、あまり他人のこと言えたもんではありません。はぁ。


5. 永井均
 「マンガは哲学する」講談社ソフィアブックス [2000]

著者は「独在論」を看板にする「人気哲学者」。「独在論」とは、古典的には「世界は私の主観(のみ)によって構成されている(にすぎない)。」とする議論ですが、この人のは少し違います。この人の議論は<私>が存在することの「奇跡」に驚嘆するところから始まっています。ここでいう<私>という表記はこういう意味です。もしこの宇宙とまったくうり二つの宇宙があって、そこに私とまったく同じ身体、経験、記憶を持つ人物がいるとする。その人物と私を区別する者はなにか。所謂「人格」だけではない「何か」が私を第2の私と区別しているはずだ。それが<私>である、と。そしてこの<私>が現実に「存在」し、しかも他に比類無い特権的な状態で存在している。これはいったいどういうことか、と。「<子供>のための哲学」 講談社現代新書 1301[1998]および「<私>の存在の比類なさ」勁草書房 [1998]を読んだ限りでは、そういう風に読めました。ところで、私は小学校低学年の頃から「何故自分は存在しているのか、20世紀の後半にこの極東の島国に、いな、宇宙誕生後たぶん120億年後のこの小さな星に「自分」なるものが存在するのか、いなくったって全然構わないではないか。では自分が存在しなかった場合は「自分」はどうなるのか、そもそも「自分」とはなにか」なんてことをときどきトイレの中なぞで考え、ほとんど気が遠くなることがしばしばありました。実はこういうことを考える人は少なからずいるらしく、そういう人たちが永井均さんの本の良い読者となるのではないでしょうか。もっともこの手の議論は決して「解決」にいたらないようで、上記いずれの本もなんとなく読後にフラストレーションがたまるわけですが。
で、その永井氏が、世にある「マンガ」のなかから彼が「哲学的」と考える諸作品を紹介するのがこの「マンガは哲学する」であります。眼の付け所はいかにも永井的で、「意味と無意味」「私とは誰か」「夢-世界の真相」「人生の意味について」「我々は何のために存在しているのか」てな観点からそれぞれ5-8点のマンガ作品が取り上げられています。藤子不二男F、吉田戦車、萩尾望都、佐々木淳子、星野之宣などなど。特に吉田戦車の「哲学的感度」はヴィトゲンシュタインなみとまで激賞されていますね。ちなみに私は「人生の意味について」で「絶対に読む価値がある」「まれにみる傑作」とされている業田良家の「自虐の詩」竹書房文庫 [1996]を買おうと思ってBOOK OFFなどを探しているのですが、もともとマンガの出版体系に疎く探し方がわからないところに持ってきて、今年(2004)の2月頃NHK-BSの深夜番組で採りあげられ評論家諸氏(この人たち絶対永井の本読んだに違いない)の絶賛を浴びたらしく、いよいよ見つけにくくなったようです。新本で買ってもいいけどマンガを新本で買うというのもなあ。一時期、新本も入手困難だったという噂も。


4. 松本修
 「全国アホバカ分布考」太田出版 [1993]

方言周圏論という学説があります。柳田国男が「蝸牛考」(岩波文庫で出ていた)で、日本各地の「カタツムリ」の呼称が近畿圏を中心に「デデムシ」「マイマイ」「カタツムリ」と同心円上に分布する事を指摘、京都に発した新しい言葉が順次周縁圏に伝播していった名残ではないかと唱えたのが日本では最初です。その後あまり例がみつからず、当の柳田大先生が晩年「これはだめかも」と弱気になったという方言周圏論に強力な支持を与えるのがこの本です。しかし「国語学」の本がなぜ太田出版から出るのか、それは著者が大阪朝日放送のプロデューサだからでしょう。ではなぜテレビ局の人間が方言周圏論の本を書いたのか。その経緯をいかにも大阪のかるいノリで綴ったこの本、単なるテレビ番組の焼き直し本ではありません。テレビという圧倒的影響力を持つメディアを最大限に利用して日本全国から膨大な量の資料を集め、「アホ」「アンゴウ」「トロイ」「ボケ」「ゴジャ」「デレ」「タクラダ」「ホンジナシ」等の諸語が見事な多重周圏性を示すことを実証したのみならず、「罵倒語」の歴史をたどることにより日本人の心性の一端を明らかにしようと言う、まことに壮大な構えを見せるのであります。このような著者の「思い」は、たとえば沖縄方言の「フリムヌ」が通説の「触れ者」(気のふれた人)ではなく、「惚れ者」(ぼーっとしている人)であることを、八重山方言の音韻対応規則から明らかにするくだりによく示されています。またアホバカ以外にも周圏性を示す語を数多く例示し、優れた資料になっています。後半では、阿呆と馬鹿の語源を中世日本およびシナの文献を頼りに追求していますが、文学部の修士論文くらいにはなりそうな気配です。きれいな図版もついていて、読みでがあります。最近新潮文庫に入ったと聞いていますが、文庫の体裁は見ていないので図版がどうなっているかはわかりません。
さて、方言の変化を系統的に調べるというのはどうやら大変手間がかかる仕事のようですが、それでも地道に調査が続けられています。専門家による調査の概略をさっと眺めたい人には、井上史雄「日本語は年速一キロで動く」講談社現代新書1672 [2003]が手頃でしょう。「グロットグラム」という図を使って言葉の時間的空間的分布を分析する方法が多くの実例と共にわかりやすく書かれています。


3. D. クリスティ=マレイ David Christie-Murray
 「異端の歴史」教文館 [1997]  原著 "A History of Heresy" [1976]

キリスト教(ただし主として西方の教会)における主な「異端」について、初代教会から現代に至るまで、順を追って述べた本。っていっても、そもそもキリスト教自体がユダヤ教の「異端」とは言わないまでも分派として始まっているわけでして、この本も、小アジアの改宗ユダヤ教徒を中心としたパウロのグループを最初の「異端」として扱っています。ところが周知のとおり、エルサレムで「主の兄弟」義人ヤコブを中心としたグループが紀元70年のエルサレム陥落で消滅してしまったあと、パウロのグループは「キリスト教」として独立し、いつのまにか「正統派」になってしまいます。これを要するに、「何が異端か」という問いは、実をいうと「なにが正統か」という、より面倒な問いの裏返しにすぎないのですね。これより4世紀に至る期間の「正統派」(「正統」自体も結構ぶれるのですが)と数々の「異端」の闘争の歴史は、ほぼ同じ主題の反復が延々とつづく、まことに御苦労さんな代物です。裏を返せば、それほど「正統派」の教義につっこみどころがたくさんあったということでもあります。
その後、8世紀には「イコノクラスム」があり、11世紀には東西教会の大分裂(シスマ)があり、13世紀にはワルドー派とカタリ派が出、ウィクリフとフスの運動を経てルター・カルヴァン・ツヴィングリが現れます。さらに英国教会が分裂し、17世紀にはヤンセン主義が出、その後はアナバプティスト、クウェーカー、メソジスト等が現れますが、ここまで来るともはや何が正統でなにが異端か容易にはわからなくなります。:-)
さて、かような歴史を扱うこの本は、何でも書いてあるというわけではないのでしょうが、叙述は中立的かつ冷静、一冊読んでおけば、主要な「異端」のあらましはわかるようになっています。まあ、一番面白いのはやはり2世紀-4世紀の「死闘」ですけどね。この死闘の結果後世に残された所謂「信仰告白」あるいは「信条」については、渡辺信夫「古代教会の信仰告白」新教出版社[2002]なる本が、5種の信条を逐語的に註解していて、なかなか役に立ちます。ミサを歌うときにはCredoのお勉強にいいかも。


2. 野矢茂樹
 「論理トレーニング」産業図書 [1997]

同じ出版社から出ている「哲学教科書」シリーズの一。産業図書の本は比較的高いですが、この本は187ページで\2,400 、まあ普通ですか。
普通、大学の教養課程で開講されているのは「論理学」といわれるもので、私の大学では、前期に古典論理学、後期は記号論理学という構成の授業をやっていました。教科書もそういう構成になっていて、後半の記号論理学は大して面白くもありませんでしたが、前半の古典論理学の方は、中世のスコラ哲学の余香漂うような微に入り細を穿つ議論に些か感動したことを記憶しております。ところがこの本、そういう論理学の内容も少しは論じていますが、もっとpracticalな、「いかにして論理的になるか」ということを主題にしています。接続詞のあつかいから始まり、論証とその評価(論証図なるものを描く練習)、演繹、批判の技術、論文の書き方なんてことを論じ、練習問題がたくさんついています。内容はじゅうぶん読ませるものですが、この本、じつは本文よりか25ページ129項におよぶ注の方がはるかに面白い。例題と練習問題に引用された種々の文章に率直なコメントをつけたりしています。結構評判が良かったとみえ、同じ著者による「ドリル」も出版されています:「論理トレーニング101題」産業図書[2001]。こちらはあまり「無駄口」をたたかず、:-) ずべての練習問題に回答をつけています。そのぶん「普通」になっていますね。似たような本に、三浦俊彦「論理パラドクス 論証力を磨く99問」二見書房[2002]、同「論理サバイバル 議論力を鍛える108問」[2003]がありますが、いずれも相当にひねた、いやちがった「凝った」本です。


1. 大槻文彦
 「言海」ちくま学芸文庫 [2004]

あの、「言海」が文庫になりました。昭和6年の第628刷(!)をそのまま覆製。すばらしい。書店で発見したとき、思わず「あ」と声をあげてしまいました。
「言海」といえば、まずなんといっても、跋文として記された「ことばのうみのおくがき」でしょう。辞書編纂の労苦を擬古文で綴った「おくがき」は世に名文として知られ、本版でもわざわざ解説で註付きで再掲されています。私、高校一年の時図書館で初めて「大言海」を発見し、この「おくがき」を読んで以来、「大言海」を手に取る機会があれば必ずこの「おくがき」を読んで、不覚にも「涙数行下ル」ことになるのが常でありました。祖父大槻玄沢の遺誡を守り、官界での栄達を捨て、冷たい文部省の仕打ちに耐え、妻子の病死をも乗り越えて大著の刊行に至る17年間の経緯(こういうのを読むと明治の初めにはえらい日本人がいたなあとしみじみ思う)には、何人も心を動かされずにはいられないと思います。昔高校の漢文の授業で、諸葛亮の「出師表」に「読んで泣かざるは人にあらず」という評があると聞きましたが、この「おくがき」の娘と妻を亡くすあたりを読んで涙腺が反応しない人がいたら、あまりお友達になりたくないですなあ。
肝心の語釈は、これも昔からいろいろ言われている通り、大変面白いです。たとえば有名な「ねこ」の項:
人家に畜ふ小き獣。人の知る所なり。温柔にして馴れ易く、また能く鼠を捕らふれば畜ふ。然れども竊盗の性あり。形、虎に似て、二尺に足らず、性、睡を好み、寒を畏る。(中略) 其瞳、朝は円く、次第に縮みて正午は針の如く、午後復た次第にひろがりて、晩は再び玉の如し。(後略)
なんていうのは、辞書オタクにはたまりません。かつてその個性的(というかやりたい放題)な語釈の紹介本が出て世に知られるようになった「新明解国語事典」(第2版がもっともスバラシイ)も、きっとこういうのを先例にしたのではないでしょうか。その他にも初めて50音順の排列を採用した(これを福沢諭吉が批判したらしい)など、「日本辞書史上に一時期を画す不朽の名著」とまで評される本書が簡単に手に入るようになったことは欣快にたえません。本当はナショナリズムと国語政策と規範辞書とかムズカシイ話も考えないといけないのですが、まあそういうのは勘弁してください。:-) なお、言海編纂の経緯については、高田宏「言葉の海へ」岩波同時代ライブラリ[1998]が出ているそうです。大佛賞受賞。